-映画、ベンジャミンバトン見て考える。-
人生とは、死という終わりに向かっているようで、始まりへ…生まれてきた場所へと再び巡る為の物語なのだろうか。
息をするという事は、どうしても君にとって外せない要素だろう。
けれど本当に大切なものは…生きるという事に大切なものは、「息をする」という答えで満足かい?
語りかけると言葉の本質は見失われる。特に情愛から来る場合は、誤解を招く。
出会いは人の一生を左右し、そして人生を組み立てる。
二時間の映画の中に人の一生が…早送りで展開されるこの映画は、見る人を選ぶだろうと私は思う。
つまり、愛だとか、人生だとか、人間について思考しない人(それは多く若者に見られるが)が見るには、単調で眠いだけの映画にしか見えないだろうと思うからだ。
意味の無い一つ一つの年代の思い出の日記を読み上げ、その情景が繋がって物語りになっているこの映画。その一つ一つの全てに存在し潜んでいる本当の価値のあるものは、やがて人生の終わりに向かうにつれて意味を持ちこの映画をより一層深い物語へ仕上げている。
私の周りに死んでいくであろう人はたくさんいる。
出会う人全てに平等に訪れ、そしてそれはきっと私をも襲う恐怖だろう。
人の一生は瞬きの間のほんの一瞬にも満たないと言われているが、それでも生きている間には覚えきれないほどの出来事が私達を待っている。それはどれだけ覚えていられるかが問題じゃない。それらの出来事にどう影響を与えられたかの方が重要なのだ。
誰とどう出合ったかではなく、そしてどうなったかが重要なのだ。
彼は彼女とであった。だけなら普通のラブストーリーで事足りる。
けれど、人と人とを別つものはなにより自分自身であり、そして何事に対しても現れるだろう弱さである。
他人とは違った運命を背負った彼の弱さと、他人と同じ人生を辿る彼女と、2人の思いは同じでも、それでも感じる弱さは違っているのだ。
彼は自分の運命を想い、彼女は子供の人生を想った。
2人は絡み合った複雑な螺旋を描きながら…それでも交わりあった階段の途中でしかお互いを繋ぎとめられなかったのだ。
天の川を一年に一度渡る様に。
「おやすみ、ベンジャミン」
「おやすみ、デイジー」
愛しているという事は特別な事。
けれどその愛は、一つではない。
その形も、一つではない。
息を引き取る間際に、見つけた居場所は…
果たして幸福な安らぎの場所だったのだろうか。
彼女は老いて、彼は赤ん坊の姿で…
そして2人は眠りについた。
人は弱い生き物だ。
人は飽きる生き物だ。
どんな人生にも挫けそうな日や、慣れすぎた日が来る。
これは愛に飢えた人間の話ではない。「不倫の話やん」と劇場で心無い人間が無作法にも騒いでいたがそんな話でもない。
ただ、弱い故に支えあい、強いからこそ別れられ、そしてまた救いを求めて支えを探している…
そんな人たちとの運命がたまたま混ざり合っただけなのだから。
眠る気で見るなら他の映画を見たほうがお金と時間の節約になるだろう。
けれど自分の人生や、愛や、人間や、生や死を考えたいのなら…劇場で静かに席に座って開演を待つといい。
君の人生が今を切なくさせるのは、
それは君という存在がいつか消えてしまうからかい?
それでも君がいたという事は少なくとも君が今、証明しているだろう。
証拠がほしいなら、自分の胸に手を当てて音を聞いてみるといい。
どくどく どくどく と君は生きている。
世界に名を残すよりも、
今を生きる時間を感じ取れる事の方が、大切で愛おしいじゃないか。
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